masami71の日記

熊本市在住の72歳の年金暮らしです

ラジオ文芸館 川上弘美作 花野

今朝は今の時期にしては寒い朝で、熊本で0.7度、菊池で氷点下1.9度、
阿蘇で氷点下3.7度でした。
今日のラジオ文芸館は、川上弘美さんの「花野」でした。
この作品は一回聞いたのでは理解不能です。
三回聞かないと、何を言わんとするかわかりません。
今もよく理解できません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
野原を歩いていて、背中から声をかけられる。
この時刻、この場所なら・・・立っていたのは、やはり5年前に交通事故で
死んだ叔父だった。
叔父は、一人娘・華子さんの結婚はまだか、叔父の妻の万里子さんが息災か
と家族の近況をわたしに尋ねる。
叔父が現れたのは、およそ2年ぶり。久しぶりに現れた叔父は、わたしを
まっすぐ見て「もう出ない。決めたんだ、やっと」と言う。

「神様」(中公文庫)所収。朗読は岩元良介アナウンサー。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「花野」は1998年に刊行された川上弘美の短編集「神様」に収録された作品。


私が花咲く野原を歩いていると五年前に死んだ叔父とたびたび出会って会話する
何気ない世間話をしたりして、何事もなく別れる。
ただ叔父が「(自分の事など)忘れてくれた方がありがたい」と言ったとたん姿が消えた。
半年後に現れて叔父は言う。
思っていないことを口にすると向こうに還るようだと。
また世間話をしたあと私へ結婚しないのかと尋ねる。
色々答えるうちに叔父は「秩序がないよ、君の人生も」と言う。
また姿が消える。

次に現れたときに叔父は「この間のことは嘘だ」という。
秩序がない人生だ何て言ったのは、君に八つ当たりしていたんだという。
続けて叔父は言う。生き返りたいと。秩序や無秩序の中でまた暮らしたいと。
そして少し泣く。最後はまた嘘を言って消える。「私は神を信じる」
そのうちまた出てくる。
向こうに還っている間はうとうとしているものだという。
叔父が政治について尋ねてきたので私が新内閣について知っていることを
話すと「ああとても興味深い話だったよ。もっと詳しく聞きたいものだ」と
言ったら姿が消えた。
次出てきたときに弁解する。
「だんだん関心の幅が狭くなる」
叔父の姿が普段よりも薄いように感じられた。
世間話のあと、叔父は、そら豆は毎日でも飽きなかった、なのにどんな
おいしさだったか思い出せないという。
生きてる間はそら豆のおいしさなど気にしたこともなかった。

同じように初夏の匂いももう思い出せない。
最後に手を握ってくれといってきたので、私はどうにか突き抜けない
ように質量のない手をとる。
叔父は安らかに「このまま永遠に眠っていたいよ」
「もう目覚めなくていいんだ」と言ったとたん姿が消える。

それから二年後、叔父が現れる。姿がはっきりしていた。
「今日がしかし、最後だ」もう出ない。決めたんだ、やっと」つまりそういうことだ」
成仏するのを決めたらしい。
そして私には世話になったから一つ願い事をかなえてやるという。
そこで私は最後の午餐をお願いする。叔父さんの好物を。
花野に机と椅子と叔父の好物がたくさん並ぶ。

叔父は食べず私だけが食べる。
最後にそら豆が残る。叔父に一粒渡す。ためしにと食べてみる。
「こんな味だったんだな」うまいな」
そう言う叔父は聖人のように輝いて見えた。
さらに「神っていうのは、その、いないこともないものなのかもしれんな」
それで午餐は終わりとなって叔父は立ち上がる。
私に対する感謝を述べた後で「いつか、また、会おう」と言ったとたん姿が消えた。


叔父がなぜ妻子の元へではなく、「わたし」という姪のところへ繰り返し
実体のない、しかし現実感のある来訪をするのかということは、逆に存在感の
希薄な「わたし」の方が死の世界の象徴たる叔父の元へ誘(いざな)われている
ということが成立する。
叔父は三回目からこれも実体のない「饅頭」を持ってくるようになるが、
渡そう・伝えようとしても仲々果たせないという叔父の心の暗喩であろう。
雑多で脈絡のない話題を語り続けながらも、最大の気がかりでもある関心事は
「わたし」がそこに来ることを止めたいという一点なのである。
「秩序」(無秩序)を説くのも、「わたし」という一個の人間存在・存在自体が
大きく揺らいでいることを思わせるし、「掘り出す」(発見する)ことは、
「わたし」という存在の自己確立を促(うなが)していることに他ならない。
叔父が「還る」(消える)のを繰り返すのは、生と死が輪廻的に繋がっている
ことに通じている。
そこには「神を信じない」(虚としての「信じる」の裏で、むしろこちらが
見せかけの「真」)から最後には「いないこともないものなのかもしれん」へと
変わってゆく過程を示すことで、生の持つ意義や価値を、裏側としての死の
持つ意味や深長さを、その度に諭そうとする、あたかも「神」からの使者の
ようにも思われるのである。