masami71の日記

熊本市在住の72歳の年金暮らしです

歴史秘話ヒストリア「富岡製糸場」

昨日、NHK歴史秘話ヒストリア富岡製糸場」がありました。
ただ、女性が働きやすく、技術が上がればお給料も上がり、就業時間もきちっと決まってて、日曜日は休みと言うことですけど、非常に違和感を感じましたね。
製糸工業の歴史をみれば、その大部分は『女工哀史』の世界であり、
低賃金、長時間勤務、不衛生な環境に支配された奴隷労働の世界
だったと言われてます。
そのことは全然触れずに放送されました。
群馬県富岡(とみおか)市。日本ではじめての機械製糸工場、富岡製糸場(とみおかせいしじょう)です。
絹(きぬ)の糸、生糸をつくっていました。
1872年、明治5年に「官営模範工場」としてつくられました。
それまで、生糸は主に女性が手作業でつくりだしていましたが、
その生糸が、広く外国と貿易をはじめた日本の重要な輸出品となりました。
そこで、最新式の機械をそろえた大規模(だいきぼ)な製糸工場をつくり、生糸の生産を質・量ともに高めようとしたのです。
長さが100メートルをゆうにこえるレンガづくりの建物に、蒸気で動くフランスから買い入れた製糸の機械が300台設置され、数百名の女工が働いていました。
この頃、政府は、日本を欧米に負けない強い国にしようと「富国強兵」をスローガンに国力の充実を図りました。
各地に官営模範工場を建設し、欧米から外国人を招いて、新しい技術や知識を学んだのです。
こうした政策を、「殖産興業」と呼んでいます。
富岡製糸場は、その後1893年に民間に払い下げられ、1987年まで生糸の生産を続けました。
経営は政府から民間に移り、昭和62年まで100年以上にわたって生糸を生産し続けました。
生糸を売ったその利益で、工場の機械や軍艦(ぐんかん)などを買う資金を外国から得ることができました。
しかし、戦争が始まると、外国からの注文がなくなり、パラシュートを
作るようになりました。
絹糸を3倍の太さにすると、かなり丈夫な絹糸になります。
戦争が終了すると、パラシュートから洋服を作りました。